望月志乃の ひびわれたまご|ADHD主婦

大人の発達障害(ADHD)当事者のイラストレーター望月志乃が、生きづらさや”楽”について考えるブログ。

発達障害者を「良かれと思って」見下す人たち

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助けてあげようと思ってもらえるだけ、有難いんでしょうね。

そういう支援活動で、救われている当事者も、中にはいるんだと思います。

ただ、わたしも人間ですから、どこか上から目線の、ズレたアドバイスをされるたび、漫画のようなことを考えてしまいます。

 発達障害は「治すべき」で、「克服すべき」もの?

わたしにとっては、発達障害というのは、血液型のようなものです。

持って生まれた血液型のタイプが違うように、脳のタイプが「ADHD型」という感覚。

「Rh-の血液型は、治すことができます!克服していきましょう!」と言われたら、どうでしょうか。(該当者の方、すみません)。

(単純に比べられるものではないでしょうが)輸血で困ることもあるでしょうし、マイノリティということで、計り知れない苦労があるんだと思います。

でも、治すとか、克服するとか、そういうんじゃないですよね?
わたしにとっては、似たようなことを言われている気持ちになるのです。

得意なこともあれば苦手なこともあり、その差が激しい

確かに、定型発達(発達障害ではない人のこと)の人が、当たり前に出来ていることが出来なかったり、生活の中で困難さを感じることが多いです。

が、その反面、定型発達の方々より、得意なこともあります。

大人の発達障害者は「可哀想な人たち」なのか? 

どうして、「相互理解を深めて」「助け合っていこう」とはならず、一方的に「授かる立場」にされてしまうのか。

わたしは、持って生まれたものを前向きに受け止め、自己肯定感を育み、プライドを持って生きていきたい。

ただ、苦手なことで、周囲に迷惑をかけてしまうこともあるかもしれない。

でも、これまでずっと、定型発達として生きてきて、「困った時はお互い様」と、助け合う場面もたくさんあった。

それが、「発達障害」というラベルが貼られた途端に、無条件で見下される対象になってしまった。

発達障害児を育てながら、無自覚で「見下す」お母さん

※正確には「わたしにもADHDがあるんですよ〜」と言いました。

「えらい」の他に、「(発達障害者なのに)子供を産んで、育てられてるなんて、すごいですね!」とも言われました。

これねぇ…、言ってる本人は全くそんなつもりがないんですよねえ。

 むしろ、「(発達障害者なのに)頑張ってますね!」と、激励したつもりなんだろうなあというのは伝わりましたので、あいまいに笑って、御礼を言いました。

人間の尊厳ってなんだろう

脳のタイプが違う、脳の機能に障害がある、普通の人ができることができない。

発達障害はグラデーションのようになっていて、厳密にいうと「普通の人」も薄いグレーです。

どこを境目にして、侮られることになるのだろうか。

診断がつくかつかないかも、医師によって基準があいまいなものなのに、まるでハッキリと明暗が分かれているよう。

悪気なく、むしろ善意から、上から目線の人がいて、遠回しに侮辱されていると感じても、「ありがとうございます。お気持ち、嬉しいです。」と、笑って御礼を言う。

 

能力的に優れてないと、尊重されなくて当たり前なの?

発達障害者にだって、胸を張って生きる権利がある…というようなことを書くと、「あなたは、能力的に恵まれているから、そんなことが言えるんだ」と、よく言われる。

重度の発達障害者の、度が過ぎた迷惑行為に悩まされている人にとっては、「それでは困る」という現実もある。

「普通の人」と同等に扱われることで、大きな負担を課せられてしまう人もいる。

 

「能力的に恵まれているから、あなたはいいかもしれないけど」というのは、

裏を返せば、「能力的に恵まれていない人間は、社会から尊重されなくて当然である。」ということにならないか。

他人が言うのならまだ分かるが、当事者本人がそう思ってしまっていることも多く、そんな姿勢では、自己肯定感が育まれるはずがない。

 

わたしは、自分くらいは自分の味方でいたいと思うし、見下されることに慣れたいとも思わない。

 

だからこそ、昨今の「自称支援者」からの

「発達障害は治すことができます!」だったり

「正しく理解しましょう!」だったり

「周囲の理解とサポートが必要不可欠です!」というアドバイスに、違和感をおぼえるのです。

 

持って生まれた脳で、これが、わたしです。「わたし」を治す気はありません。

正しく理解するも何も、自分のことですから、言われるまでもなく勉強しています。

周囲の理解とサポートに心から感謝していますし、確かにそれらがなければ、わたしは生きていけません。

 

ただ、それを言ったら「誰だって、人は1人では生きてはいけない」のではないですかね。「相互理解」と「助け合い」ではなく、一方的に与える側と、与えられる側に分かれている表現に出会うたび、「施し」を受けているようで、なんだか複雑な気持ちになるのでした。

 

(程度にもよるでしょうが)

発達障害者は、本当にそこまで可哀想な存在なんでしょうか。

社会の一員として、プライドを持って生きてはいけないんでしょうか…

 

(※個人的な見解であり、全ての当事者がそう感じるものではありません。また、「わたしと同じように思うべきだ」と、強要するものではありません。)

 

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