望月志乃の ひびわれたまご

大人の発達障害(ADHD)当事者のイラストレーター・志乃が、生きづらさや”楽”について考えるブログ。

【お悩み相談】「アイデンティティがADHDになってしまいそうで怖い」

こんなご質問をいただきました。

私はADHD診断済です。

もっとADHDの情報を集めたり、ADHDの情報発信アカウントをフォローしたり、同じ人と繋がったりしたい気持ちはあります。 でもそういうことをすると自分のアイデンティティーが真っ先に「ADHD」になってしまい、他人からも自分でも、「ADHDの人」としか見られなくなりそうとか、「当事者活動・当事者研究」「理解を得る活動」みたいなものに依存・のめり込んでよくない方向に行かないか不安です。

志乃さんは、趣味もあり、妻や母親でもあり、ADHD以外の病気や体質もあるでしょうし、ADHDとは関係なく「自分はこんなタイプ」「こんな人間」というのも、当然おありでしょう。

でも正直に言うと、私のTLで志乃さんのツイートが回ってくるのはほぼADHDの話なので、どうしても「あ、あのADHDアカウントの人だ」と思ってしまうところがあります(大変失礼なことだと思います、すみません)。

そういうことに関して、どう感じて受け止めていますか? また、どうやって自分の中でバランスをとっていますか?

引用元:私はADHD診断済です。 もっとADHDの情報を集めたり、ADHDの情報発信アカウントをフォローしたり、同じ人 | Peing -質問箱-

ありがとうございます。 

こちらに関して、私なりに一つ一つ回答させていただきたいと思います。

 

 「自分らしさ」が「発達障害の特性」に変わっていく恐怖

それまで「これが自分らしさだ」と思っていたものが、発達障害の知識を得ていくほどに「実はそうじゃなかった」と知ることになる。

「気をつけていても、どうしても遅刻をしてしまう。どうしてこう、自分はだらしのない、ダメな奴なんだ。」というのが、「そうじゃなかったんだ、ADHDのせいだったんだ!」と、ポジティブに作用しているうちはいいですが、掘り下げていくうちに、どんどん「自分らしさ」と「ADHDらしさ」の境界線がわからなくなっていく。

人間の思い込みの力は恐ろしいものがあって、「自分はADHDだから」という理由で、「ADHDらしく振る舞おう」とすることもある。

 

私のひとつ前の記事に「そんな歳になって、子どもまでいるのに、まだこんなくだらない自分探しをしているのか」と、手厳しい意見もいただきました。

まさにそうなんですよね。

ADHDについて調べていくうちに「自分らしさ」がどんどん分からなくなっていく。

長所も短所の裏返しですし、30年以上信じてきた「自分らしさ」が、「ADHDのせい」なら、私って一体なんなんだ???ってなるわけですね。

 

自分を見失って、底なし沼にのめり込んで行く人たち

それまで信じてきたものが突然、リセットされるわけですから、足元がグラついて、何かにすがりたい気持ちになる。そういう時に、ADHD仲間のコミュニティに救われる方も、大勢いるんだと思います。

ただこの質問者の方は、そういう行動が「依存的だ」と感じ、「のめり込むのが怖い」と考えてらっしゃる。「冷静に、客観的に、盲目的にならず、きちんと見極めたい」という、真摯な願いを持ってらっしゃるんだと推測します。

この時点で、とても真面目で冷静な方だというのが伝わります。

「ブレーキがかからなくなってしまうのでは」と意識していること自体が、既にブレーキになっている。

なんだか上から目線の発言のようになってしまって恐縮なのですが、こうやって「自分自身を疑う力」のある方は、暴走もしにくいんじゃないかと思います。

ブレーキが強すぎても、それはそれで視野が狭くなりますし、注意が必要かもしれませんよ。

人間は「興味のあるもの」を強く認識する

正直に言うと、私のTLで志乃さんのツイートが回ってくるのはほぼADHDの話なので、どうしても「あ、あのADHDアカウントの人だ」と思ってしまうところがあります。

 …とありますが、実際はそう「ADHDの話ばっかり」なわけでもないんですよ。いや、まじで。

「猫の話しかしていない」と言う人もいれば「子育ての話題ばかり」とか、「オタク趣味の話ばかり」と言う人もいます。

自分では(最近、人権問題とかの話ばっかりしちゃってるよな〜〜)と考えていたところです。

実際には色んな話を垂れ流しているのですが、質問者の方にとっては興味のない話題として、目に入らないのだと思います。

それと、もしかしたら、ADHD関連の方をフォローしていて、その方々と「興味・関心」を共有しあい、リツイートで私のツイートを目にする機会が多いのかもしれませんね。

他人の印象はコントロールできない

ここまでの話でお気づきかもしれませんが、「自分をどう思われたいか」という希望を持っていても、コントロールはまず、できません。

血液型占いを信じ込んでいる人に「AB型だからって、性格を決めつけないで!」と言うことはできても、「AB型だからって、AB型の人として見ないで!」と言っても仕方がないというか。

 

まあ実際、わたしAB型だしな、みたいな。

(これを「女性」という言葉に置き換えてみても、同じかもしれませんね)

 

「AB型の人について、どんな印象を持つか」は、その人の自由意志。

「私は確かにAB型ですが、私は私なので、誤解はしないでください。」と言うのは、私の自由意志。

 

自分でどうにかできるとしたら後者で、前者には限界があります。

 

「自分がどう思われるか」にこだわっても、大抵どうにもならないけど、

誤解に対して「私はこういう人間です」と対話することはできる。

 

「志乃さんは、ADHDの話ばかりしているように見える。」

「…いや、そうでもないよ?」

「志乃さんはADHDの人って感じがする。」

「あなたが私を、そういう目で見ているだけなんじゃないかなあ。」

「ADHDの人だって思われたくない」

「ADHDなのに?そう思うのは、なんで?」

「ADHD関係なく、私は私だって言いたい」

「言ったらいいよ!」

 

質問者さんは質問の中で、わたしに抱いた印象について謝っていますが、こうやって表明してくださったおかげで、私はこうして自分のことを話す機会が持てたわけですよね。

大事なのはこうやって、自己開示し合うことなんじゃないのかなあと思います。

 

他人の印象はね、どうにもならないよ。

このブログやってると、本当にそう思う。

そうじゃなくて、「自分がどうありたいか」を大切にするしかないんじゃないのかなあ。

 

あなたは、どういう自分でありたいんですか?

あなたの幸せを願っています。

 

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【追記】続きを書きました。

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