望月志乃の ひびわれたまご

大人の発達障害(ADHD)当事者のイラストレーター・志乃が、生きづらさや”楽”について考えるブログ。

私が私に生まれた理由は何だろう

「人は誰もが、役割と目的を持って生まれてくる」

笑われるかもしれないが、そういう考え方が好き。

 

もしそれが本当なら、私がこの体と、この脳と、この心を持って生まれてきた理由は何なのだろう。

そういうことを、たまに考える。

 

 

私に「ADHDっぽい特性」があるのは確かでも、専門家によっては否定される、微妙なラインに立っている。

私が「ADHD当事者として」のエッセイ執筆の多くを、お断りさせていただく理由がここにある。

 

私は、私より辛い立場の人に、本当の意味で「寄り添う」ことは、たぶんできない。

その人には、その人にしか分からない苦しさがあって、その一部を代弁することができたとしても、きっと濃度の薄い、浅いところを、ザルですくうようなもの。

 

「代弁してくれてありがとう」と感謝をされることも多いけれど、立ち位置をわきまえなければ、きっと私はすぐに傲慢になってしまう。

 

女性として生まれて、女性として振る舞うことを求められ、女性として扱われることに違和感を抱えて生きてきた。

特殊な家庭環境の中で、様々な困難に見舞われながら育ってきた。

 

「普通であること」がうまくできなくて、何かとトラブルを抱えながら生きてきた。

「ADHD」という概念を知って、得体のしれない生きづらさの正体が分かった。

 

でも、そこがゴールではなかった。

 

自分を的確に示してくれる言葉や概念に触れたとしても、結局のところ、それが全てではなくて、その形に収まりきらないから問い続ける。

 

私は何かと「中途半端だなあ」と思うけれど、「女性らしさに違和感を持つ女体の私」も、「ADHDのような、そうでもない脳を持つ私」も、「母親らしくない私」も、それらが全て、「私自身」で「否定するものではない」のだとしたら。

「私はどうしてこうなんだろう」とこうなってしまった原因を探るより、こうなったからこそできることを探すべきなんだろう。

そもそも、中途半端じゃない人間なんて、いないのかもしれない。

 

私は私以外の人間にはなれないし、慮って相手になり切ろうとしても限界はある。

誰の代表にもなれないし、理想通りには生きられないし、私は私だと割り切るしかないし、似たような境遇の人を全て救うなんてこともできない。

 

「人は誰もが、幸せになるために生まれてきた。」

 

もしそれが本当なら、私が私として生まれて、ここに「この私」として存在することにも、きっと意味がある。

 

私に一体、何ができるんだろう、とすぐ考え込んでしまう私。

大抵、たいしたことは何もできないので、すぐに落ち込んでしまう。

頼まれてもいないのに、いらんところで消耗して、いつも心が疲れている。

我ながら、あほらしい。

 

ただ、私が好きな漫画「彼方から」に、こんなセリフがある。

 

「人はね、みんな誰かの役に立ちたくて生きているんだよ。自分には何もできないと思っていても、できることがある。「ありがとう」って感謝することがね。」

 

特別な力も何も持たない、無力で非力な「普通の女子高生」のまま、異世界に飛ばされてしまった主人公・ノリコ。

彼女は物語の中で困難にぶつかり、自分の非力さを嘆きそうになる時、自分で自分の気持ちを切り替えて「ちがう、今の自分にできることに集中するんだ!」と奮起する。

「異世界の言葉が分からないなら、ひとつずつ覚えればいい」だとか、

「待つしかできないのなら、待っている間にここのお掃除をしていよう」だとか、

とにかく「どんな小さなことでもいい、今の自分にできることをやろう」と、何度でも立ち上がる。誰に対しても心優しく、穏やかで気弱な性格ながら、そういう芯の強さを持ったヒロインで、大好きなキャラクターだ。

先ほどのセリフは、そんな彼女が重症を負ってしまい、いよいよ寝ていることしかできなくなってしまった時、「何もできない」と泣く彼女に、仲間がかけた言葉。

 

どんなに無力で、どんなに非力に思えたって、自分が「ありがとう」と伝えただけで、救うことが出来る人がいる。

 

「できないことを嘆くんじゃない、今の自分のままで出来ることに集中するんだ。」

ノリコのこの「ピンチの時の合言葉」に、思えばだいぶ救われてきた。

 

理不尽なこと、どうにもできないことに、見ないふりをすることもできる。

うつ病になりやすい人は、まっすぐで真面目な人が多い。

真正面から向き合おうとするからきっと、こんなにも生き苦しい。

 

わたしには、わたしに出来ることしかできない。

わたしは、わたし以外にはなれない。

わたしがわたしに生まれたことに意味があるなら、

わたしにしか出来ないこともあるはずで、今できることはなんだろう。

 

寝て、起きて、食べて、また眠るだけの生活でも、消耗が激しくて、

他人は難なくこなしているように見えることも満足にできなくて、

何でもないところに深く傷ついたりして、

自分への絶望が、そのまま周りの世界への絶望につながっていく。

 

自分は無力じゃないと信じることで、少しずつでも周りが変えていけるのではないか。

周囲を自分の思い通りにコントロールなんてできないし、そんな権利もありはしない。

生きづらさに抗えるとするなら、自分自身を受け入れることが第一歩だというのも知っている。

 

何も満足にできないという自分を受け入れるのは、なかなかにハードルが高いけども。まあ、仕方ないね。

 

わたしに作曲の能力と歌唱力があったなら、歌に乗せて世間に訴えるところだけど、あいにくそんな能力は持ち合わせていないし、それは別の「得意な誰か」が一生懸命やっている。

 

嫌になってしまうニュースばかりの世の中で、

わたしが、わたしのままで、できることは何だろうな。