望月志乃の ひびわれたまご

大人の発達障害(ADHD)当事者のイラストレーター・志乃が、生きづらさや”楽”について考えるブログ。

「私は虐待しているのでは」と思い込んでた割に大量のメロメロ動画が残っていた話

どうも。志乃です。

いま、幼児虐待のニュースが話題ですね。

詳細は伏せますが、事実が明らかになるにつれ、本当に心が痛みます…。

どうしてそんなことになってしまったのか。

救う手立てはなかったのか。

そんなことをつい考えてしまいますが、考えれば考えるほど、落ち込んできてしまいますね。

何の救いにもならないかもしれませんが、私の経験を書かせていただきたいと思います。

「私は虐待しているのでは?」と気に病んでノイローゼになった

1〜3歳頃になると、自我が芽生え、自由に動き回るため、危険度が増します。

「親がちゃんとみていればいい」というのはもっともですが、子育て未経験者が思っている以上に、大変なことです。

また、親が子の自由を奪い、無理に行動をコントロールしようとする行為にも、それはそれで問題がありますよね。それが行きすぎると、しつけではなく、虐待になってしまうわけです。でも世間は、「親がしっかりコントロールしろ」と、厳しいしつけを要求する。

「しつけ」と「虐待」の境界線とは?自信がなくなってくる

「自分があまり幸福な幼少時代ではなかったから、子どもにはそんな思いをさせたくない」という思いから、幼児発達心理学や、育児本などを読み、「理想的な接し方」について、勉強もしていました。子育て講座にも出向きましたし、保健師さんにも積極的に相談しました。

でも、そうやって勉強すればするほど、「本来なら、こんなことするべきでないのに」といった具合に、「知識はあるのに、理想通りにできない自分」に焦り、追い詰められていく

そして当時、イヤイヤ期で一番手のかかる時期に、引っ越したばかりで近所に知り合いもなく、おまけに旦那は長期出張の連続。

月に2日ほどしか帰ってこない旦那を、自宅に引きこもりながら、ひたすらワンオペで待ち続けるという生活が続き、ずーーーーっと2人きりという環境もよくなかった。

 

声を荒げたくなんかないのに、つい怒鳴ってしまう。

こんなことするべきでないってわかっているのに、辛く当たってしまう。

何を言ってもイヤ、何をやってもイヤ、じゃあ自由にしていいよと言ってもイヤ。

 

話し相手は、いつかけてもなかなかつながらない「いのちの電話」だけ。

 

自然とネットに救いを求めることが多くなり、すぐスマホに逃げてしまうように。

スマホ依存症だという自覚はありまして、早い段階から専門家に相談していましたが、唯一の心の拠り所だったのもあって、スマホいじりがやめられなかった。

癇癪を起こして、何をどうやっても何時間でも泣きわめく娘に耐えられなくなり、別室に逃げてスマホを触るたび、「わたしは、ネグレクトをしてるんじゃないか?」という思いが強くなっていきました。

 

児童相談所に電話したら逆に褒められた

思いつめた末に、児童相談所に自ら電話をかけたこともあります。

 

「子育てが本当につらくて、可愛いと思えない時がある」

「自分はネグレクトをしていると思う」

「虐待をしていると思う」と電話口で現状を伝えると、

 

逆に「お母さんは、すごく頑張っていますよ。」と褒められてしまいました。

 

でもそれも、「我が家の惨状をちゃんとわかっていないから、そんなことを言うんだ」と、まったく信じていませんでした。

その後、いろんな専門家に相談しましたが、みんな同じことを言う。

 

「お母さんは、とってもよく頑張ってますよ。」

「そんなわけありません。私、全然ダメなんです!発達障害もあって…!」

 

何度もそう繰り返しましたが、どこに行っても「そんなことないですよ、頑張っているじゃないですか、自信持って」と言われるばかりで、あまり真剣に取り合って貰えませんでした。

 

こちらとしては、それが余計に不安になるわけですね。

 

「ちゃんと可愛がってあげられなかった」という記憶が鮮明に残った

もっと遊んであげればよかった。

もっと優しくしてあげればよかった。

もっと可愛がってあげればよかった。

 

1〜3歳の時期は、可愛い盛りだったのに。

何年も虐待一歩手前のことをしてしまっていた。

限界だなんて思わずに、もっと愛してあげればよかった。

 

そんな後悔と記憶ばかりが残っていました。

 

「容量がいっぱいです」という通知が届いて、パソコンを開くと…

そんな娘も今では6歳になり、いつものように小学校に行っている間にPCをつけて、メールチェックをしていると。

「Googleストレージの容量がいっぱいでこれ以上は保存できない」という通知が届きました。

(…え?何がそんなに詰まってんのよ)と、Googleドライブにアクセスしてみると…。

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出るわ出るわ、娘が笑顔でうつっている動画の数々。

 

「そう、よかったね。」

「そっちは危ないよ!」

「寒くない?大丈夫?」

「すごいすごい!」

「可愛いね〜」

 

たどたどしく、絵本が読めるようになった日。

はじめての公園で、はしゃいでいた日。

お弁当を手づかみでほおばる日。

 

一つ一つを開いてみると、そのすべてに優しく語りかける私の音声が入っていました。

 

泣いた。

 

人の記憶って、適当なものですね。

「公園に行くのが辛くて、あんまり連れていけなかった」なんて思っていたのに、公園でのムービーがやたらある。連れてってんじゃん。わたし、連れてってんじゃん。

自分で思っていたよりずっと、娘のことを愛していたようで。

こんな調子でいたらそりゃ「あなたは虐待なんてしてないよ」とみんな言うわ、って感じ。

 

考えてみたら「お願いです、どうか娘を、ダメな私から助けてやってください!」と必死に懇願して回っているわけですから、その時点で大切に思っていないわけがなかったんですよね。

 

今回の虐待事件の親は、どうだったのだろう

手を下した父親が悪いのは言うまでもないとして。

こんなんじゃダメだと思いつつ、そうもいかない現実に追い立てられて、自力で解決する力がなかったのだろうか。

助けたいと思いつつ、助けられなかったのだろうか。

そこに一滴の愛情もなかったのだろうか。

いちばん大変な2〜3歳児期を、なんとか死なせずに乗り切ってきたはずの、お母さん。

 

「同じ母親として、許せない」と批判するべきところなのはわかっているけれど、ほんの少しだけでも愛はあったと、信じたい。

被害にあった子にも、心から愛されていた瞬間があったと信じたい。

そうじゃなかったら、あんまりじゃないか。

 

これからも自問自答を続けていく

「私は虐待をしているのでは」と自分を厳しく見つめることこそが、わたしの場合、娘を大切に思っていることの証明だった。

やり方は歪んでいたけれど、私なりに娘を守ろうとしていたんだと思う。

 

「ちゃんと愛せているかどうか」なんて、自分にはわからない。

他人に大丈夫だと言われたって、信じられない。

だからこそ問い続けるし、それがきっと、娘を私の加害性から守ることにつながる。

 

今はそんな風に思います。

 

おわりに

 

最後になりましたが、個人情報が特定されない範囲で公表できる動画がありましたので、それを載せて終わりにします。


ノンタンを朗読する娘

www.youtube.com

 

虐待に苦しむ全ての子どもに、たくさんの愛情が降りますように。

 

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