望月志乃の ひびわれたまご

大人の発達障害(ADHD)当事者のイラストレーター・志乃が、生きづらさや”楽”について考えるブログ。

ぬるっとサクッと愚痴めいたことを書くよ

どうも。志乃です。

一本前の記事は、ブログのセオリー的に、どう考えても3〜4記事くらいに小分けして書くべきところだったのに、勢いに任せて一本化してしまいました。

 

ガッ、とまとめてやりたがる。

夏休みの宿題は、初日に半分、最終日に残り半分をやるタイプ。

こういうとこだぞ!

まあ、それは置いておいて。

 

小難しいことを、小難しげに語るより、肩の力を抜いて書くのもいいかもなあ、と思いながら、今これを書いています。

その方が読みやすい文章になったりするんですよね。って、毎回言ってる気がするわ。

 

人を人とも思っていないような、傲慢なオッサンが社会的に成功していて、細やかな心配りができる人が消耗し、精神科に通っていたりする。

鏡を見たほうがいいんじゃないかしら、と言いたくなるような人間性の持ち主が、自己愛をこじらせて踏ん反り返っていたり、素晴らしい感性の持ち主だなあと感じる人が、謙虚を通り越して、卑屈の沼底に沈んでいる。「鈍感力」なんて本が話題になりましたが、敏感な人間は損をするばっかりなんでしょうか。

 

何でこの人は、見ず知らずの人間(=私)に対して、ここまで無礼になれるのかしら?

何でこの人は、私に発達障害があるというだけで、私の人生を否定してくるのかしら?

何でこの人は、「健常者(※自称)」というだけで、私に対してこんなに偉そうなのかしら?

 

何でこの人は、いかに自分が恐ろしいことを言っているか、省みることをしないのかしら?

 

何でこの人は。

 

まあ、「そういう人だから。」なんでしょうけども。

 

私から見て、人間的に未熟だなーーと感じる人に、発達障害を理由に人間性を否定される時、複雑な気分になります。

 

 

「愚かだなあ」と見下すのは簡単だけど、そうやって簡単に見下してしまったら、やっていることは同じだろうか?

丁寧に事情を説明すれば、伝わるだろうか。

 

私を侮辱する発言の裏に、私には分からないその人の苦しみがあるのかもしれない。

 

でも、そんな風にこちらが気を遣うほどに、相手はこちらに配慮なんざしてくれなくて、「生きているだけで迷惑な存在だ」なんて、びっくりするほど傲慢なことを言ってくる。

 

「発達障害がある」という一点で、完全に生物としてのマウントを取ったつもりになられる。

 

その単純明快さ、いっそ見習いたい。

 

私のことを大切に思ってくれている人ほど、「そんな人は放っておけばいいよ」と言ってくれるし、本当にその通りだと自分でも思うわけですが、ただ黙って侮辱されることに慣れるのも、何だかなあと思ったりします。

 

「プライドを持って、自分らしく生きたい」という発信を続けていると、どうもそれでは困るという人と出会う。

その人にとっては私の存在が厄介で、否定に否定を重ねてくる。

その度にいちいち萎縮するのもバカらしいので、「そうですか〜」と受け流すわけだけど、どうしても「何でこの人は、こんな酷いことが平気で言えるのかしら」という疑問は残る。

 

そして、そういう人間性の方に、何で私はこんなにも見下されてんのかしら。

 

わからん。

わからんわ。

 

鈍感な人ほど社会に適応できて、

そうでない人は「適応障害」になってしまうんだとしたら、わたしは後者でいたい。

 

ただ、優しい人でありたい。

ただ、真面目に生きたい。

ただそれだけなのに、気づいたら傷だらけになっているのは、何でなんだろうなあ。

 

私もやっぱり、まだまだですね。