望月志乃の ひびわれたまご|ADHD主婦

大人の発達障害(ADHD)当事者のイラストレーター望月志乃が、生きづらさや”楽”について考えるブログ。

執着と解放。孤独と愛。人生について考えていると、アンパンマンがチラつく話

皮肉なもんだ。

 

「どうしてもこれが欲しい!」と思っているうちは、なかなか手に入らなくて、「もういいや」と諦めた頃に、ヒョッコリとやってくる。

 

そうやって握りしめた執着を手放すことで、望むものが手に入る。

自己啓発系の書籍やら、心理学書やら、宗教の教義やら、『生きづらさ』について調べていると、よく目にするこの概念。

 

恋人や家族の愛情が欲しくて、束縛しては逃げられて、

名声が欲しくて、良い顔をしてはメッキが剥がれて恥をかき

お金が欲しくて、利己的になって信用を失う。

 

過ぎたるは及ばざるが如し?

強く欲しいと願うから、目標に向かって進んでいくのに、走って追いかけない方がいいだなんて、うまくいかないものだ。

 

まあ要するに、「自然体でいろ」ということなんだと思う。

身の丈に合わないことをすると、どこかで取り繕わなければならなくなる。

そうやって、ちいさな無理が積もり積もって、どこかで一気に崩れてしまう。

欲に目がくらんで、冷静さも自分らしさも失ってしまう。

実力が伴わない成功は、代償も大きい。

 

夢なんて見なければいいというのも違うんだろうな。

自分にあるもので勝負すればいいものを、自信がないからメッキで固めた急造品で取り繕うとしてしまう。

 

そして厄介なことに、自分の「すごいところ」は、自分じゃ気づきにくいようになっている。

自分では「これくらい出来て当たり前だ」と思って、苦もなくこなしていることが、周囲から見たら物凄いことなんだけれど、それを伝えられても「え、こんなの大したことないでしょ?」と思ってしまう。

「出来て当たり前」のことこそ、その人の才能なのに、いつまでもそれに気づかない人がたくさんいる。

 

「何にもできない人」なんて、おそらく存在しない。

本人とその周囲に自覚がないということは、不幸なことによくありそうな話だ。

 

「特に苦労もせず出来ること」を磨き上げることが出来たならそれでいいじゃないかと思うけれど、仕事にしていく上で「それで食べていけるか」どうかという話も絡んできて、自己実現とお金は切っても切れないもんだなあと思う。

 

親がつい言いたくなる「いつまでも遊んでないで、勉強しなさい。」も、「いつまでも好きなことばっかりやっていないで、安定した職業を探しなさい。」という意味とほぼ同じ。

 

手放すと生きやすくなる。

諦めると手に入る。

ただし「求めよ、さすれば与えられん」と言う通り、諦めてるだけでも叶わない。

 

あくまでも自然体の自分のままで

なりたいものや欲しいものを強く願いつつ

目の前に吊るされていてもガッツかず

冷静さと平常心を保ったまま

焦ることなく迷うことなく

自分らしさを見失わず

そうやって手に入れた大事な人やものですら執着せずに手放せと。

 

 

無理じゃないですかね?

 

 

誰にも、何にも執着しない状態。

それはとても孤独なことで、何でも持っているようで同時に、何にも持っていない。無であり、有。

 

こういうことを考える時、どうしても脳裏に浮かぶのが、あの丸い顔。 

アンパンマンを生み出したやなせたかし先生に、深くお話を聞いてみたかったとよく思う。

自分の頭すら「手放す」アンパンマンは、誰からも愛されているが、彼自身が「特別な誰か(=恋人)」をつくることは決してない。(劇場版「それゆけ!アンパンマン 勇気の花がひらくとき」より)

 
アンパンマンが人間の目指すべき究極体だとして、もう一つの条件として「自然体であること」があるわけだが、そんなとんでもなくハードルが高い難題を、「アンパンマンは君さ」というエンディングテーマの通り、実にライトに要求されている。
 
しかも幼少期から自然に刷り込まれ、一生のこる形で。
やなせたかし、おそるべしである。

 

「愛と勇気だけが友だちさ」というのは切ないフレーズに思えるけれど、アンパンマンには、ばいきんまんがいる。

アンパンマンの世界に、不要なキャラクターはいない。

ありのままであることが、既に誰かのためになっていて、自然体なままで出来ることをすればいい。

今ここに存在していること自体が、スタートであり、ゴールなのかもしれないな。