望月志乃の ひびわれたまご

大人の発達障害(ADHD)当事者のイラストレーター・志乃が、生きづらさや”楽”について考えるブログ。

娘が幼稚園で「みんなと違うのは恥ずかしい」と学んできた話

「みんな違って、みんないい。」

 

"他人との違い"を「おもしろさ」や「刺激」と捉えて、お互いの多様性を認め合えるようになればいい

このブログでも繰り返し書いてきたテーマです。

 娘に対しても、旦那と共にそのように伝えてきたつもりだったのですが、いくら家庭内でそのような方針でいたとしても、「幼稚園でバカにされる・からかわれる・イジられる」という経験は、娘にとって強烈なものだったようです。

引っ越す前に通っていた幼稚園は、のびのびとした園風だったこともあり、そのギャップもあって、転園してからしばらく、娘は登園拒否をしていました。

担任の先生のご協力もあって現在は元気に通っています

 

(幼稚園選びを失敗した私の責任では…?)と自分を責め、思い悩んだ時期もあったのですが、これは日本で子育てをしていく上で、遅かれ早かれ直面する問題だとも思います。


「みんなと違う材料」で「作品をつくる」のが恥ずかしい?

 

先日、娘と一緒にダイソーや手芸店を回ってみたのですが、他にそれっぽいものが見つけられず。すっかり日も沈んでしまったし、家に置いてきた子猫のことも気になってしまい、「これはビーズじゃない…」と嘆く娘の意見をないがしろにして、諦めて帰ってきてしまいました。

娘にとっては、それがとても辛く、「みんなと一緒じゃないと恥ずかしい」と泣いていたと、後から旦那づてに聞きました。

 

考えてみると、幼稚園から持って帰ってくる工作物のほとんどが、「作り方が決まっていて、みんなで同じ手順で、同じように同じものを作る」ようなものばかり。

一方、娘は元々、0から自分で自由に作るのが得意なタイプ。

img.shinoegg.com

 

幼稚園の教育方針と合わない…というだけの問題かもしれませんが、それに加えて、担任の先生の認識では、うちの娘は「工作が苦手」ということになっていて、旦那と一緒に「え……得意だよね?」と驚いたことを思い出します。

 

 

 

前の幼稚園では、教室の壁に、黒いクレヨンで髪の毛を塗った絵が並ぶなか、自画像の髪色を好きな色(ライトブルー)で塗りたくった娘の絵が、堂々と飾られていたことを思い出して、切なくなってしまいます。

 

でも、いつまでもそんなことを言っていても、始まりませんよね。

大事なことは、これからのこと。

親として何が出来るのか、考えないといけません。

 

「みんなと違う」のは恥ずかしいと思わせる日本の教育

「ほら、みんなちゃんとしてるよ。〇〇ちゃんだけ恥ずかしいね。」と言って子どもに言うことをきかせようとする大人の姿を、誰もが一度は目にしたことがあるのではないでしょうか。

それが良いとか悪いとかいう話はひとまず置いておいて。

日本は「恥の文化」とも言いますし、大人の社会でも「羞恥心」が「日本人の礼儀正しさ」を生み、秩序を保っているのだと思います。

 

この「恥の文化」の恩恵のために、多様性の否定というデメリットごと、日本社会の深いところまで浸透していて、根深い問題だと思います。

 

そして、子どもは親の鏡ですから、耳が痛い話でもあります。

 

 

親の言葉は無力なのか?

3歳頃の絵。髪の毛は1色じゃない

3歳頃の絵。髪の毛は1色じゃなくたっていい

ガムテープが1つあればファッションショーができる

ガムテープが1つあればファッションショーができる

パリコレのランウェイをイメージして撮影

パリコレのランウェイをイメージして撮影

パンがないなら作ればいいじゃない

何のことはない。

のびのびできる居場所を、家庭以外にも作ってあげればいいだけの話。

誰がなんと言おうと、わたしは彼女の感性が好きだし、これからもそれを伝えていくことに変わりはない。

「みんなと違う」ということで、バカにされたり、けなされたりした、沢山の”わたし自身の記憶”から、つい「娘にも同じ思いをさせたくない」と思わされてしまうけれど、大切なのは「自己肯定感」で、誰に何を言われようと、本人に自信が持てればそれでよいのだった。

 

「違う」ということを「バカじゃねーのw」と嘲笑する人もいれば、「面白い」と爆笑してくれる人も必ずいる。わたしはそのこともよく知っている。

 

しかしまあ、「子育てとは自分育て」とはよく言ったもんで。

掘り下げてみるとまた全部、わたしの問題だったってオチ。