ひびわれたまご

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ひびわれたまご

大人の発達障害(ADHD)当事者のイラストレーター・志乃が、生きづらさや”楽”について考えるブログ。

「人から良く思われたい」を捨てると自由になれる

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自分を実際よりも大きく見せたくなった時。

実はとっても「ありのままの自分」に自信がない時。

他人に対して、何かケチをつけたくなった時。

他人のやることが、気になって仕方がない時。

 

全て、自分自身が「のびのびと生きていない」時なのかもしれない。

 

「なんでも自分に都合よく願いが叶うとして、自分はいったい、何を望むのか?」

そう問いかけると、自分自身の抑圧された願望が浮かび上がってくるんだそう。

定期的に、自分に問いかけるようにしています。

 

 もし許されるのなら「自由でいたい」

それが私の願いなのかもしれないな、と最近よく思います。

でも「そんなわけにいかない」「そんなことを願ってはいけない」という気持ちもある。

現代日本で生きていると、不自由さを感じることばかりで、何のために生きているのか、分からなくなる時もあります。

私の場合、育児なんて特にそう。出産してからは、すべてが子ども中心の生活。

それはそれで幸せなことでもありましたが、それだけでは満たされない自分がいる。

自由を求めることは「わがまま」なのか?

私たちは、「わがままを言っちゃいけないよ」という教育を、家庭で、学校で、社会で、受けてきた。

私は母親です。自分のことよりも、娘のことを考えるべき立場の人間だと思っています。責任もある。いざという時は、自分を犠牲にしてでも家族を守る覚悟もある。

でも、「自分のために、のびのびと生きたいだなんて、そんなこと願っちゃいけない」なんて思いつつ、自分の胸に問いかけてみると、本心ではやっぱりそう願ってしまうのです。

心のどこかに強い義務感がある。

私にとって子育ては、「子どものためにやるもの」であって、「自分のため」ではないと、無意識に思っている部分もあるのかもしれません。

「こうあるべき」と思ってしまうのは何故か

頭が固くなって、視野が狭くなってしまっている。

世間体もあるのかもしれません。

特に、娘を産んでしばらくは、「世間の目」が怖くて仕方がない時期がありました。

ネットに溢れる冷たい意見を見て、悪影響を受けていたのだと思います。

電車の中で、娘が泣いたらどうしよう、白い目で見られたらどうしよう、とハラハラし、家の中では、隣の部屋の人から夜泣きのクレームが来たらどうしよう、とハラハラし。「なんだあの対応は!これだから最近の親は…」と思われるのが嫌で、心が休まる日がありませんでした。

私の場合は、出産後、赤ん坊だった娘の世話をしながら、書籍「陣痛なう」の執筆作業を平行して行っていたので、さらに「世間の目」に対するプレッシャーが強まっていました。エッセイは、生き方を発表するようなもので、この本を出したら、世間からどう思われるだろう、とか。激しくバッシングされるんじゃないだろうかとか。そうなったら、とても嫌だな、と心配してばかりいました。

 

転機が訪れたのは、つい最近

なんやかんや、ありまして。

関係者の中で、「誰も悪者になりたがらなかった場合」、どうなるのかという体験をしました。詳しくは書きませんが、そりゃあもう、大変なことになりました。

「他人からどう思われたいか」に囚われ、八方美人になり過ぎると、最初は誤魔化せても、どんどん信用を失っていくんですよね。

「悪く思われたくない」という気持ちを悪用され、都合よく利用されることだってある。

 

「実際よりも、よく思われたい」と思うと無理が出る

その無理や、実際との差は、大人相手には簡単に見透かされてしまう。

化けの皮がはがれた時、恥をかくのは他でもない自分。

運よく隠し通せたとしても、ずっと演技や無理をしていなくてはならなくなる。

自分を客観視できず、「私はもっと評価されるべきなのに」なんてフラストレーションを溜めてしまうことも。

もしかしたら、周りに起こっている現象は、なるべくしてなっているもので、不当なものではないのかもしれない。

 

みっともなくても自然体でいることでうまくいく

自然体でいるように心がけると、そんな自分をバカにする人がいたとしても、不思議なもので、「でもまあ、これが私だしな~」と受け流すことができるんですよね。

「もっと自分は素晴らしいんだぞ!」ということを周囲に知らしめたいという気持ちが自分にあると、「なにおう!?」と頭に来てしまう。

誰にどう思われようが、どうでもいい。自然体でいたい…と思うようになると、虚勢を張ったり、自分をより良く見せる必要がなくなるので、バカにされてもあまり気にならなくなりました。

カッコつけると、カッコつけてることがバレた時に恥ずかしい

これ、子どもの頃から思っていて、そうはなりたくないな~なんて思っていました。

飾らない自分でいたいな、なんて思っていたけれど、実際は気づかないうちにバリッバリに飾っていたんですよね。

「ちゃんとした母親だと思われたい」という気持ちも、同じようなものかもしれないな、と思います。

 

ありのままの自分を認めて、好きなように生きる

これがここ数年の流行りというか、キーワードですよね。

そういった題材の映画であるとか、CMがヒットするというのは、現代人みんなに潜在的にそういう願望があるということ。

で、実際はそうできていない人が多いからこそ、そういう作品がヒットするのだということ。

「それができたら、苦労はしない。」

そう思う人も多いのではないでしょうか。私がそうなんですけどね。

 

でもきっと、それが出来た人から、自由になっていけるんでしょうね。

何事もいいとこ取りはできませんから、そういう生き方をしない人はしない人なりに、しないことで得るメリットを優先させているのかもしれません。

 どんなことにもメリット・デメリットがある

私はどちらを選ぶのか。

「良い母親」って、なんなのか。

そう「思われたいから」目指すのか。

そう「ありたいから」目指すのか。

そう「あるべきだから」目指すのか。

 

余計なものをそぎ落して、自然体の自分で生きようとした時、本心が望む「願い」や「目標」は、いったい何なのか。

自分にとっての幸せとは、何なのか。

それは、誰かに何かを言われて変えるべきものなのか。

 

綺麗ごとだけで生きてはいけないけれど、綺麗ごとなしにはきっと満たされない。

人からどう思われたいかを捨てると、自由になれるけれど、自由になる代わりに失うものも確かにある。

自分だけが幸せになったって、満たされないものもある。 

自分の落としどころは、どこなのか。

 

お母さんが笑顔でいることが一番」なんて専門家の先生は言うけれど

この、情けなくて、自分勝手な私が、「ありのまま生きる」ことが、本当に娘のためになるのだろうか?

 

「娘(旦那)のために生きたい、幸せにしたい」

「でも、自分も自由でありたい」

 

それが相反するように感じるから、私は苦しいのでしょうか。

落としどころが見つからないから、不安になるのでしょうか。

 

これからも何度でも問いかけるテーマになりそうです。

あなたの願いは、なんですか?

 

現場からは、以上です。

 

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